肝心なのは、むかしのひとたちが魂の危機におちいったときそうであったように、この大災害のなかで、子どもたちはやっぱり1冊の本に飢え、そしてそれを読むことで心の安らぎをとりもどした、というその事実だ。本が、マンガが、物語が、こんなにも力を持っていることを、あまりにもそれらと近ちかしく長い年月を過ごしてきたせいで、ぼくはどうもわすれかけていたみたいなのだ。
 
もしかしたら、「感動の大作」とか「人生を変える1冊」とか、そういう宣伝文句が本といっしょに乱舞するのを見すぎたせいで、感受性が、角質化でぶ厚くなったかかとの皮膚のようになっていたのかもしれない。とはいえ、状況のせいにするのは卑怯だ。
 
物心ついて以来、本を手にしなかった日はほとんどなく、物書きになってからは本についてさんざん書いてきたくせに、その能力を無意識にみくびっていたのだから、弁解の余地はない。それこそ、書物の面白さについて云々うんぬんするなど、おこがましい。これまでぼくを育ててきてくれた本たちに、心からあやまらなくてはいけない。ほんとうにごめんなさい。そして、被災地の子どもたちに、一日もはやく心安らぐ本が届くよう、ぼくなりに努力するつもりだ。
 
しかし、それにしても『ONE PIECE(ワンピース)』の威力はすごい。大震災で傷ついただろう少年の心を癒し、さらにそのことについて書かれた記事を通じて、ぼくのへこたれをけとばし、しゃんとさせてくれた。ということで、お礼にもならないけれど、『ONE PIECE』から本題に入ろうと思う。
 
もっとも、Z会を利用している若い世代のひとたちなら、男子はもちろん女の子だって、きっとぼくよりずっとくわしくこのマンガについて知っているはずだ。だから、いわゆる「釈迦に説法」ということになってしまうかもしれないけれど、まあ大目にみてほしい。
 
さて、『ONE PIECE』。1997年から『週刊少年ジャンプ』に連載されて今にいたっているから、実に14年の長きにわたってつづいているわけだ。単行本は61巻。連載35年目、単行本173巻の『こち亀』に次ぐ長寿マンガということになる。こんなに長いあいだ安定して続けられる理由のひとつは、おそらくストーリーがすごくシンプルで、しかも古典的だという点にあるだろう。
 
この世のすべてを手に入れた海賊王ゴールド・ロジャー。彼が遺した「ひとつなぎの秘宝 ONE PIECE」を求め、世界中の海賊たちは争奪戦を繰りひろげ、世は大海賊時代をむかえる。そんな時代に生まれた海賊に憧れる少年モンキー・D・ルフィは、自分の命を救ってくれた海賊・赤髪のシャンクスとの約束を胸に、大海原に船出する。「ONE PIECE」を探しだし、海賊王になるために。
 
つまり、この漫画はひとことでいってしまえば、「宝探しの旅」の物語だ。古代ペルシャの叙事詩でも、あるいは古代ギリシアの神話でも、超人的英雄たちはしばしば「宝探しの旅」にでていく。それはかならず信じられないほどの苦難をともなう旅で、だからこそ、それに命をかける者は英雄と呼ばれるのだ。有史以来、人類にずっと愛されてきたこの筋立て。『ONE PIECE』が長寿である秘密のひとつは、これだろう。
 
もうひとつ、このマンガにはこの上なくシンプルな要素がある。それは、メインキャラクターであるルフィの性格設定だ。四文字熟語をならべるなら、「天衣無縫」「直情径行」「猪突猛進」「大胆不敵」。要するに、単純で熱くなりやすく突っ走りやすい性格ってことだ。
 
そういう性格のルフィが命を賭して守るもの。それが、友情だ。幼い彼を巨大魚から救うために、赤髪シャンクスは片腕を失った。その衝撃に大泣きするルフィに、シャンクスは「安いもんだ。腕の一本くらい・・・。無事でよかった。」とほほえむ。ルフィにとって守るべき友情というのは、そういうものなのだ。
 
動物的直感で、ルフィは虐げられているだれか、心に傷をいだいているだれか、助けを求めているだれかを見つけだして、ただひたすらまっすぐになぐさめ、守ろうとする。そのむちゃくちゃな直線性は、「無垢」の究極的なかたちのひとつだといえる。
 
そんな彼がいるからこそ、彼の仲間たちは複雑な過去や秘密を背負うことができるのだし、差別や暴力(海賊だから、乱暴で当然なんだけれど)、不条理な国家体制、宗教、独裁者といった、ぼくたちが現実の世界でももてあましている厄介きわまる問題を、血のかよった情理あふれる筆致で描くことができるのだと思う。

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著者プロフィール

大岡玲(おおおか あきら)

大岡玲(おおおか あきら)

1958年東京生まれ。私立武蔵高校卒業後、二浪の末に東京外国語大学イタリア語科に入学。以降、だらだらと大学院まで居すわってしまう。大学在学中から本格的に小説を書きはじめ、87年29歳の時に最初の小説を文芸誌に載せてもらう(あの時は、気絶するほどうれしかった!)。1989年に『黄昏のストーム・シーディング』という作品で第二回三島由紀夫賞を、90年には『表層生活』で芥川賞を受賞した。小説以外に、エッセイ、書評、翻訳なども手がける。お調子者なので、テレビ番組の司会やコメンテーター、ラジオ出演なども時々やっている。2006年からは、東京経済大学で日本文学や日本語表現、物語論といった授業を担当中。