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「学校」は何を学ぶところか(3)

探究心を育てる学習を学びの中心に

――そうした学びは、今の日本では極端に少ないですね。ですが、イエナプランのように「探究」に重きをおいた学びの機会を増やしていくと、いわゆる教科知識の力が低下したりしないでしょうか。

いえ、むしろ学ぶ意欲を高める原動力になります。学びのおもしろさを感じられる瞬間の一つは「わかる」「できる」を感じることですよね。そして自分の成長が実感できること。協同学習や探究学習の経験は、自分の成長を実感する大きな機会になるはずです。

もちろん、ドリルを使った学習でも、すべての子どもが、「わかる・できる」ことのおもしろさを発見できるのなら問題はないんです。ですが、一斉授業だとどうしても、ついていけない子や逆につまらないと感じる子が出てきてしまう。

それに、もう答えがわかっていることを知るのが勉強なんだと、それだけになってしまうのは少し寂しいですよね。「今学んでいることの先には、こんな未知の世界があるんだ」と、その先の世界を大人が見せることも大事だと思うのですが、それが日本の学校にはあまりない。カリキュラムの自由度が低いので、自分をわくわくさせる探究心が育ちにくいんですね。

時代が変わっても学校で身につけるべき学びの本質は「自由に生きるための力」だという点に、つねに立ち返って考えなくてはいけない。そして、現代において自由に生きるための力は何かと言えば、それは「探究する力」だと思うのです。

自分で問いを立てて、自分たちなりのやり方で、自分たちなりの答えを導き出す力。この力の獲得をカリキュラムの中心におくと、必然的に、探究するには知識もやはり必要だということが実感できるはず。そうなれば、同じ勉強をするにしても、やらされ感がずいぶんなくなるのではないかと思います。

〈自由〉を守るために、してはいけない「我慢」

――学校が、「自由の相互承認」を学ぶという大切な使命を持っているのだとすると、もしわが子が「学校に行きたくない」と訴えてきたら、どう対処すればよいのでしょうか。

もし学校が原因でお子さんの自由が脅かされているのであれば、行く必要はありません。心がズタボロになるのを我慢してまで行く必要はない。むしろ行くべきではないということは、ぜひ広く理解されてほしいです。

とはいえ、不登校のご家庭の葛藤も、とてもよくわかります。実はわたしの子どもも、おととし、半年ほど学校へ行けなくなった時期があり、そのことを心底痛感しました。

苦しさの原因の一つは、周囲の目。学校に行かないイコール「怠け」である、引きずってでも学校に行かせるべきだ、という価値観は根強いんですよね。

もう一つは、不登校の子どもに学校以外の教育機会を用意できるか。両親ともに仕事で帰りが遅いとなると、その間はゲーム三昧ということにもなりやすい。不登校を受け入れ、家庭で子どもの学習に付き添うなど別の選択肢を用意できるかどうかは、そのご家庭の経済状態などにもよるので、本当に難しい問題です。

 

――不登校を受け入れる選択を誰もができるわけではない。だとしても、我慢を子どもに強要すべきではないのですね。

そうです。時折「学校は我慢を学ぶところだ」などと主張する人もいますが、こうした認識には大きな問題があるんですよ。

わたしは、我慢にも「受動的忍耐」と「能動的忍耐」の二種類あると思っています。いじめられて苦しんでいる子に「学校に行け」というのは、要するに「ただひたすら耐えろ」と言っているのと同じ。それは「受動的忍耐」なんです。自分にはどうすることもできないなか、ただただ身を縮めてやり過ごすことを覚えさせる。そうした我慢は、子どもの力を奪うだけ。弊害のほうが大きいのです。

これまでの人生で「受動的忍耐」をしてきた大人は、それによって今の自分が形づくられているわけですから、「受動的忍耐」を必要以上に正当化してしまったり、同じように我慢することを子どもに求めたりしてしまう可能性がある。このことを自覚する必要があります。

それに対し、経験する価値があるのは「能動的忍耐」。本当に探究したいこと、やりたいことがある子は、たとえさまざまな障壁があったとしても、人と協同しながら、あるいは創意工夫によって、何とか乗り越えていこうとします。そういう忍耐こそ、大いに経験すべきです。

時代に合った、よりよい市民社会をつくるための学校の役割

――わが子にはつい多くを求めてしまいがちですが、学校で学ぶ究極の目的は、子どもが自由に生きられる力をつけること。そのことを心に留めておく必要がありますね。

自分が自由に生きるのはもちろん、みんなが自由に、幸せに生きられる社会をつくるにはどうしたらいいか。学校とは、それを考える練習の場でもあります。

いま大学生を見ていると、ルールというのは一方的に与えられるもの、我慢して従うものだと思い込んでいる若者が多いように見えます。それは、小中高と学ぶ過程で、校則などルールが一方的に与えられるばかりで、自分たちでルールを見直す機会が保障されていなかったことにも原因があるのではないでしょうか。

若者が政治や社会に関心がないと嘆く声もありますが、学校を自分たちの手で作るという経験がなければ、よりよい社会を作るのは自分たちだという自覚は持てないでしょう。

ルールとは本来、みなが自由でいられるためにみなで作り合うもの。子どもたちにその経験を保障することは民主主義の土台を築くことであり、学校教育の本質なのです。

 

――学校を自分たちの手で作るというのは、小学生にもできることでしょうか。

できますよ。たとえば、「教室リフォームプロジェクト」という活動を実践している先生がいます。学びの主役は子どもたちですから、子どもたちみんなで意見を出し合い、折り合いをつけながら、教室をリフォームするアイデアを出していくんですね。たとえば教室の真ん中には畳を置こう、その周りをベンチで囲もうとか、読書スペースを作りたいとか、いろんなアイデアが出てきます。これも自分たちでよりよい学校を作る探究的な活動の一つですし、「協同型」「プロジェクト型」の学びにもなります。

 

――なるほど。先ほどの「イエナプラン」も驚きでしたが、保護者世代は、自分の受けてきた教育にとらわれずに、新しい発想で学びのあり方を考える必要がありますね。

学校を変えるために、保護者のみなさんにも、「もっと違う学校のあり方があるんじゃないか」と考えていただけると嬉しく思います。そのためにはまず「知ること」。今の教育システム以外の方法をぜひ知ってほしいですね。

みな、自分の受けてきた教育しか知らないので、これが当たり前だと思い込んでしまいがちです。みんなが同じことを同じペースで学習するのが当たり前、理不尽な校則があるのも、頭髪指導があるのも当たり前、そういうものだと思い込んでいる。でも、今の日本の教育は、歴史的に見ても、海外と比べても、超ローカルなものなんですよ。世界にも、実は日本にも、画一的でない教育システムの例は多数あります。今はまだ、別の教育システムがあるんだということを多くの人が知っていくフェーズ。このフェーズを越えれば、日本の教育は、音を立てて変わっていくのではないかと思います。

わが子の受ける教育がすぐに変わるということはないかもしれないけれど、だからといって遠い話だと思わないでほしいのです。学校教育は市民社会の基盤をつくる仕組み。将来、わが子を含めた市民一人ひとりがより自由で幸せな社会になるように、学校のあり方に関心をもってくださる方が増えてくれればと願っています。

 

――本当にそうですね。ありがとうございました。

プロフィール

苫野一徳(とまの・いっとく)

熊本大学教育学部准教授。博士(教育学)。専攻は哲学・教育学。多様で異質な人たちがどうすれば互いに了解し承認しあうことができるか、探究している。『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)ほか著書多数。NHKスペシャル「シリーズ 子どもの“声なき声” “不登校”44万人の衝撃」、ウワサの保護者会(NHK Eテレ)「学校へ行かない!」などの出演も。
ブログ:https://ittokutomano.blogspot.com/

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