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スポーツキャスター 宮下純一さん(1)

北京オリンピックで競泳400メートルメドレーリレーの第一泳者として銅メダルを獲得した宮下さん。水泳を始めたのは、水嫌いを克服するためだったとか。水が顔にかかるだけでもダメだった幼稚園時代から、どのようにして水泳に向き合い、オリンピックメダリストにまで至ったのでしょうか? その足あとと、引退後もスポーツキャスターとしてさまざまな番組で活躍する宮下さんの原動力についてうかがいました。
(取材・文=浅田 夕香)

わたしの原動力

まだ身につけていなかったものを吸収して、
さらに強い自分になりたい。この思いが、
選手時代も、今も変わらず自分を動かしています。

お風呂にはシャンプーハットが必須。水が苦手な子どもだった

――水泳を始められたきっかけは?

5歳のとき、幼稚園で水遊びに加わろうとしないぼくを心配した先生が母親にすすめたことですね。「小学校に入ると水泳の時間があるから、このままだと大変ですよ」と。水が顔にかかるのがいやで、シャンプーハットなしではお風呂にも入れない子どもだったんです。もちろん、水遊びもいやでした。

――その状態から水泳を好きになるまで、どのくらいかかりましたか?

週4回、どれだけ泣いてもスイミングスクールに連れて行かれましたから、水になじむことにはそれほど時間はかかりませんでした。ただ、水が嫌いという気持ちは変わらなくて、水泳が好きになったのは小学校の後半くらい、全国大会に出るようになってからですね。3年生から選手コースに入って週7回練習するようになり、5年生で初めて背泳ぎで全国大会に出場しました。当時はSNSもまだなかったので、ライバルのことを知るには全国大会に行くしかなくて。「また友達と会いたいな」という気持ちでがんばっていました。

――どんなところに楽しみを感じていらっしゃったのでしょうか?

タイムという形で練習の成果がはっきりと出ることです。背泳ぎの練習って、毎日同じ天井を見て、泳いでいる間は会話もできずにプールのなかを行ったり来たりするので、おもしろくないんですよ。でも、試合に出て、自己ベストを更新すると、「過去の自分を超えたんだ」とはっきりわかる。それがぼくはすごく好きでした。毎年少しずつ、少しずつ記録が伸びていくのがうれしかったですね。大学を卒業するまで、自己ベストが出なかった年はありませんでした。

――辞めたいと思うことはなかったんですか?

中学時代にそう思った時期がありました。思春期に入って、友達と遊びたい、映画を見に行きたいという気持ちが出てきて。でも、記録は伸びていくので周りはほめてくれる。「楽しい」よりも「今辞めるともったいない」という気持ちで泳いでいました。

――続けることができたのは、なぜだったのでしょうか?

仲良くしてもらっていた中学校の保健体育の先生に「水泳を辞めたい」と話したときに「壁は乗り越えられる人におとずれる。だけど壁の厚さや、高さ、険しさによってあきらめる人も出てくる。そこで差が生まれるんだ。」と言われたのが大きかったですね。

そうやって、スイミングスクールの先生も含めていろんな方から期待する声をかけてもらったことで、あらためて「自分にとって水泳ってなんなんだろう?」「なんで水泳をやりたいんだろう?」って考えてみたんです。それで思い出したのが、小学4〜5年生のころに抱いた「オリンピックでメダルを取りたい」という思いでした。「自分のために、少しずつでも速くなっていきたい」という気持ちが強く出てきました。

自らを売り込んで、進学する大学を決めた

――高校時代は、インターハイの常連ではありましたが、表彰台に上ることはなかったとのこと。卒業後の進路はどのようにして決めたのでしょうか?

たくさんの大学から勧誘をもらいましたが、両親から言われていたのが「水泳人生はあと4〜5年、残りの人生の方が長いことを考えて大学を選択しなさい」「どの道に進むかは自分で決めなさい。そのためのサポートはしてあげるから」ということ。自分のやりたいことを考えてみると、中学時代に水泳を辞めることを思い止まったときに抱いた「保健体育の先生になりたい」という夢がありました。そこで、「保健体育の教員免許が取れて、水泳の強い大学に行く」と決めました。

ただ、勧誘してくれていたなかでいちばん強い大学は、保健体育の教員免許が取れなくて。調べて見つけたのが、筑波大学です。筑波大からは勧誘がなかったので、スイミングスクールのコーチに頼んでスクールのOBで筑波大の卒業生の方に連絡をとり、筑波大の監督に紹介してもらえないかとお願いしました。監督としては、すでに勧誘を終えていたのでこれ以上は……という考えだったようですが、OBの方がずっと推してくれて、なんとか受験にこぎつけ、入学がかないました。

スランプから抜け出すきっかけになった母のことば

――大学3年で迎えたアテネオリンピック(2004年)は残念ながら出場を逃されました。次の北京オリンピックを目指すまでに、葛藤などはあったのでしょうか?

北京オリンピックを目ざすことはすぐに決め、大学卒業後の所属先もホリプロに決めることができたのですが、実際に「ホリプロの宮下純一」になり、仕事として泳ぎ始めると、結果がすべてで、世界大会の表彰台に乗らなければ評価されないという現実を突き付けられました。それがプレッシャーで、代表には選ばれるけれどタイムが伸びない期間が2年以上続きました。

――どのように打開されたのでしょうか?

一つは、北京で終わりにすると決めたことです。出場できてもできなくても、出場して結果が良くても悪くても、選手生活は終わりにすると決めました。

もう一つは、母のことばです。オリンピックイヤーに入る直前の秋、代表選考会まであと半年しかないのに自己ベストが出なくて、練習に行くのが辛くて、気分が落ち込んで、母にお尻を叩いてもらいたくて電話したんです。ふだんはまったく連絡しないのに。

そのとき言われたのが「あなたは今、水泳が楽しい?」ということばでした。「覚えてる? 中学や高校のとき、学校から帰ってきたらカバンをぽーんと投げ捨ててスイミングのカバンに代えてプールに行ってたよ。あなた今、その気持ちで水泳できてる?」と。まったくそのとおりで、涙が止まらなかったです。

そして、「あと半年水泳ができるんだよ、楽しみなさい」ということばで気持ちが切り替わりました。「あと半年あるなら、チャレンジできることがある」「北京に行くんだ」とチャレンジャーの気持ちになれたのが大きかったと思います。

 

 

⇒次のページに続く 満を持して出場した北京オリンピック、そして、引退後のスポーツキャスターとしての活躍に迫ります!

プロフィール

スポーツキャスター

宮下純一 (Junichi Miyashita)

5歳から水泳をはじめ、9歳のときコーチのすすめにより背泳ぎの選手となる。
その後、鹿児島県立甲南高校から筑波大学に進学し体育専門学群で保健体育科中高教員免許を取得。2008年北京五輪競泳男子100m背泳ぎ準決勝で53.69秒のアジア・日本新記録を樹立、決勝8位入賞。同400mメドレーリレーでは日本の第1泳者として銅メダルを獲得。その年10月に現役を引退。NHK「しごとの基礎英語」やTBS「ひるおび!」等にも出演し、さまざまな競技の魅力を伝えるスポーツキャスターを軸に活動中。

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