ブックトーク

『海のおばけオーリー』

世代を超えて読み継ぎたい、心に届く選りすぐりの子どもの本をご紹介いたします。

動物と人間 『海のおばけオーリー』

M・H・エッツ文・絵/石井桃子訳/岩波書店/1,400円(本体価格)

表紙と見返しには茜のような鮮やかなレッドも使われますが、それ以外はモノクロームです。墨一色の筆でコマ割りに描かれた絵を目でたどるのは、昔のフィルムを一コマずつ鑑賞している心地に似ています。この色数の少ない質実な外見と、「おばけ」という刺激的な文字が、幼い人たちの間で時に誤解を生み、敬遠される材料ともなってきたのを見てきました。出版されて優に半世紀以上を誇る“OLEY, THE SEA MONSTER”(原題)は、大人がまずは手にとって、子どもたちとご一緒に読んでみてほしいエッツの作品です。

生まれてまだ間もない赤ちゃんアザラシ、オーリーは、やさしいお母さんの庇護のもと、海辺で穏やかに暮らしていました。しかし、ある日、お母さんが海へ魚を捕りに行ってひとりきりでいる時、連れ去られ、動物屋に売られます。そして、少し育つと、今度は遠く離れた都会の水族館に連れて行かれるのでした……。

水族館の飼育員は気の好い人で、オーリーを大事にしてくれますが、もちろんそんな親切な人ばかりではありません。図らずも多事多難な日々を生きねばならなくなったオーリー。母親とはぐれてしまったのも偶然なら、そこから始まる彼と人間社会との関わり――事件や事故――も、思い掛けなく生じたものです。水族館で人気者に祭り上げられたかと思えば、恐ろしい化け物として新聞雑誌を賑わす存在にも仕立てられます。挙げ句の果てに、人間の都合と勝手な思惑で命を奪われる危殆(きたい)にさえ瀕するのです。矢継ぎ早に、彼が巻き込まれる出来事を滑稽に語って見せながら、一方で、作者は世の中をシニカルに批判する一面ものぞかせます。ジャーナリズムへの不審、集団心理の恐ろしさを含む社会機構が、主人公の驚きや違和感となって表現されていくのです。しかし、それらはあくまでストーリーの縦糸であって、やはり惹かれるのは主人公の純真さです。遭遇する出来事をそのまま受けとめながらひたすら前進する率直な姿。どうしたって偶然に左右される道程を、無垢で警戒心の乏しい彼の美点をもって生ききった雄姿です。

主人公のアザラシが母親と再び会うために泳いだ距離は広遠です。終盤のページには、アメリカ大陸北東部の地図が詳細に大きな見開きで描かれますが、それによると、オ―リ―が飼育されていた水族館は、ミシガン湖のほとりに建っています。五大湖の上流に位置するこの湖から、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖と、セントローレンス川水系の湖をオーリーは一気に泳ぎくだりました。もちろんフィクションには違いないでしょう。しかし、実際の地図で彼の旅を指で追跡すれば、母親の面影を求めて一心に泳ぎつづけた主人公の祈りが、シンパシーをともなって読者の胸を打つはずです。

精確な描写と、篤実な登場人物の造型――創り手の豊かで清廉な人間性が作品から滲(にじ)みます。時間をかけて生みだされた誠実な一冊は、いつの時代も、子どもたちに新鮮な滋養を注ぎ込んでくれるでしょう。危機に臨んだからこそ、愛にも喜びにも、そして生きる意味にさえも気付ける私たちなのだと、結末で安心して眠りにつく主人公の姿から教えられたように感じました。

プロフィール

吉田 真澄 (よしだ ますみ)

長年、東京の国語教室で講師として勤務。現在はフリー。読書指導を行いながら、読む本の質と国語力の関係を追究。児童書評を連載するなどの執筆活動に加え、子どもと本に関する講演会なども行う。著書に『子どもファンタジー作家になる! ファンタジーはこうつくる』(合同出版)など。

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