親と子の本棚

父の夢、母のことば

子どもには本好きになってほしいけれど、どう選べばよいかわからない……。そんなときはこちらの「本棚」を参考にされてみてはいかがでしょうか。

一度だけ行った谷

富安陽子・松成真理子の絵本『さくらの谷』のとびらには、むこうの山々が描かれている。

 あの山なみを、ずっとずっと西へいくと、そこに、だれもしらない谷があります。
 さくらの花にうもれた、そのふしぎな谷に、わたしは、いちどだけ、いったことがあるのです。

とびらを開けると、灰色の空と、枯れ木の山だ。――「それでも、かれ木におおわれた山には、もうすぐだ、あとちょっと、という、春のけはいがみちているようでした。」
「わたし」は、落ち葉をふんで、林のなかの尾根道を歩いている。どれほど歩いたか。木立がとぎれて、目の前は深い谷だ。――「その谷をのぞきおろしたわたしは、おもわず、あっと、いきをのみました。」
ページをめくると、つぎの見開きには、「わたし」が見下ろす谷に咲いた満開のさくらが描かれている。

『さくらの谷』より

谷は、あかりをともしたように、ほんわり、ピンクにかがやいていました。

谷の底から、何か聞こえてくる。――「さくら やなぁ/さくら とてぇ/さくら ゆえぇ/さくや ちらすや かぜまかせぇ」「わたし」は、歌声にさそわれて、細い道を谷へとくだっていくのだ。

さいごのおくりもの

絵本の帯には、「2020年 早春」として、作者のことばが記されている。

去年の春、父を見送りました。まだ寒い三月のことでした。
家の窓から、冬枯れの山並みをながめるうちに、毎年父と見たあの山の桜をこれからはもういっしょに見ることもないのだなと思って、急にさびしくなりました。
葬送の日の夜に見た、あやしくも幸福な桜の谷の夢は、そんなわたしに父が残していってくれた、最後のプレゼントだったのかなと思っています。

絵本のなかの「わたし」は、マフラーにコートの大人の男性で、作者の夢にあらわれた、おとうさんだろうか。
富安陽子さんがおとうさんを亡くされたより少し前、一昨年の暮れに、私も、母を見送った。私の母は、宮川ひろといって、130冊ほどの本を書いた児童文学作家だ。
亡くなる半年ほど前、老人ホームの母のところに行ったら、原稿を一つ書いたという。老化のために背骨のなかの神経の通り道が細くなって、歩けなくなり、だんだん手も不自由になっていたから、痛い手でゆっくり書いたのだろう、原稿用紙の罫からはみ出す字で横書きになっている。幼児絵本のテキストで、男の子とおじいちゃんのつきあいが描かれている。ふたりは、「へてか へねかめ かめかめ かめか……」と唱える。これが、母の一周忌を前にして刊行された絵本『「へてか へねかめ」おふろでね』のもとになった原稿だ。絵本の帯には、「宮川ひろ さいごのおくりもの」とある。
呪文のようなことばのことは、母のエッセイ「「へてか へねかめ」三回ね」(1985年)に書かれているが、母の友人のお宅に代々伝えられたものだという。「子どものときに、毎日となえて、もらいこんできたことばは、あしたをいい日にする力をわきたたせてくれる」――エッセイは、そうしめくくられる。
ましませつこさんの絵で絵本が出ることに決まってから、母は、しばしば、私に「『へてか へねかめ』どうなった?」とたずねた。老人ホームの部屋で、母は、30年あまりも前に出会ったことばを思い出して、励ましにしていたのかもしれない。母は、絵本の刊行を楽しみにしながら亡くなった。
子どもたちの毎日は、楽しいこともいっぱいだけれど、つらいことだってある。「へてか へねかめ……」、それが、子どもたちの命を励ますことばになってくれることを願う。

励ますことば

最上一平『へんてこテーマソング』のいがらしくんは、おかあさんと買い物に行った、スーパーさかうえで、花山しずくちゃんに出会う。幼稚園からいっしょで、同じ1年3組のしずくちゃんは、ずっと学校を休んでいる。しずくちゃんが「いがらしくん、こんど おてがみ かいてもいい?」というので、「いいけど」といったら、ほんとうに手紙が来た。――「『のこった、のこった、ドスコイ』って、なんの ことですか。」いがらしくんは、スーパーで、自分のつくった歌を歌っていたのだ。いがらしくんも返事を書いた。――「しつもんの、『のこった、のこった、ドスコイ』は、テーマソング? みたいな ものです。ぼくの なかで、はやっています。これ うたうと、げんき でるよ。」しずくちゃんも、まねをして歌うようになる。のこった、のこった、ドスコイ。

今月ご紹介した本

『さくらの谷』
富安陽子 文、松成真理子 絵
偕成社、2020年
谷底では、おおぜいが、さくらの木の下で車座になって、お花見をしていた。それは、赤鬼、青鬼、黄色の鬼……、色とりどりの鬼たちだった。でも、ちっともおそろしくない。「わたし」も、いっしょにすわることになる。

『「へてか へねかめ」おふろでね』
作 宮川ひろ、絵 ましませつこ
童心社、2019年
宮川ひろは、1923年、群馬県生まれ。作品に『るすばん先生』(ポプラ社、1969年)、『春駒のうた』(偕成社、1971年)、『先生のつうしんぼ』(偕成社、1976年)、『夜のかげぼうし』(講談社、1978年)、絵本『びゅんびゅんごまがまわったら』(林明子絵、童心社、1982年)など。ましませつこ絵の『天使のいる教室』(童心社、1996年)三部作もある。2018年12月29日永眠。95歳。

『へんてこテーマソング』
最上一平 作、有田奈央 絵
新日本出版社、2019年
いがらしくんが主人公の作品に、『山のちょうじょうの木のてっぺん』(2019年)、『にんげんクラッシャー、さんじょう!』(2020年)もある。いずれも、有田奈央絵で、新日本出版社刊。

プロフィール

宮川 健郎 (みやかわ・たけお)

1955年東京生まれ。立教大学文学部日本文学科卒。同大学院修了。現在、武蔵野大学名誉教授。大阪国際児童文学振興財団理事長。日本児童文学学会会長。『現代児童文学の語るもの』(NHKブックス)、『子どもの本のはるなつあきふゆ』(岩崎書店)、『小学生のための文章レッスン みんなに知らせる』(玉川大学出版部)ほか、著書・編著多数。

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