ブックトーク

『かしこいビル』

世代を超えて読み継ぎたい、心に届く選りすぐりの子どもの本をご紹介いたします。

スピーディで爽快なShort story『かしこいビル』

ウィリアム・ニコルソン 作・絵/松岡 享子・吉田 新一 訳/ペンギン社

1872年、英国で生まれたウィリアム・ニコルソンは、美術学校を卒業後、木版を用いたポスターデザインや芝居の舞台美術で幅広く活躍します。そして、1922年に、マ―ジョリー・ビアンコによる『ビロードうさぎ』の挿絵を描きますが、その後、依頼に応えて、彼が文章・絵ともに手がけたのは、この『かしこいビル』を含め、たった2冊きりです。ロートレックの影響を受けたというニコルソンの石版画は、都会的な明るさに満ちていて、一度目にしたら、本を開いてみずにはいられないでしょう。

レモンイエローの表紙のまんなかには題名が赤い文字で堂々と書かれ、その周囲を汽車がぐるりと走ります。バッキンガム宮殿の衛兵のような扮装をしたビルは、両手にシンバルを持ち、片方の腕を高く掲げています。威勢のよさが感じられる後ろ姿です。お話の分量がそう多くない絵本ですから、表紙や裏表紙といった装丁は、とても大切な役目を担っています。とくにこの本の裏表紙には、物語の重要な結末が描かれていますので、ぜひ手にとってご確認ください。

お人形の“Clever Bill”(原題)は、女の子メリーの宝物のひとつでしたが、おばさん宅へ出かける準備をしているとき、メリーは、持参する荷物のトランクにうっかりビルを入れ忘れます。手袋や、小さなティーポットや、お人形のスーザンはしっかり詰め込んだのに。積み残されたビルの表情ははっきり見えませんが、「なんと!!」「なんと!!!」という絶望的な繰り返しのあと、ぐったりと座り込んで滂沱(ぼうだ)の涙を流し続けるビルの姿があります。しかし、次のページをめくれば、意表を突く展開に……。

そうきたか!という爽快感とともに、少しだけ泣きたくなるような感傷を覚えるのはなぜなのでしょう。「それから、もちろん かしこい ビルは おいていくわけには いかないし」と持ち物を丁寧に選別していたメリーとビルとは相思相愛だったはず。それなのに、「なんと!!」メリーがあっさりビルを置き去りにしたからでしょうか。以前、この本を一緒に読んだ男の子が、この場面でうっすら涙ぐんでいたのを思い出します。人は、幼くても、思う人に、自分が思うほどには思われないせつなさを充分に知っているのだなぁ、と不意打ちに遭ったように心をつかまれたのでした。みんな誰かの一番特別な存在になりたいのです。

でも、わたしの胸に迫ったのは、むしろ、この後のビルの“行動”だったかもしれません。決められた既存の枠を無効化する清々しさと、本能的なアクション。そのばかばかしいほど真っ直ぐな行動力に、ふと泣けてくるのです。ファンタジーだから何でもあり、という暴論はまったく適当ではありません。繊細に心を深く語っている作品であることにまちがいないのですから。

突きぬけた気高い明るさを持ち、肯定的なエネルギーに満ち満ちているこの絵本が、わたしはとにかくとても好きなのです。2,3分もあれば読み終えてしまうこの本が見せてくれる(わたしの周囲とは)違う世界。絵と短いテキストにぎゅっと精製されたエッセンスは、初版からおよそ100年経った現代の読者をも魅了します。少なくとも、わたしにとっては、大切な心のギフトとなった一冊です。

プロフィール

吉田 真澄 (よしだ ますみ)

長年、東京の国語教室で講師として勤務。現在はフリー。読書指導を行いながら、読む本の質と国語力の関係を追究。児童書評を連載するなどの執筆活動に加え、子どもと本に関する講演会なども行う。著書に『子どもファンタジー作家になる! ファンタジーはこうつくる』(合同出版)など。

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