ブックトーク

『ひげのサムエルのおはなし』

世代を超えて読み継ぎたい、心に届く選りすぐりの子どもの本をご紹介いたします。

古い屋敷で繰り広げられる動物たちのサスペンス劇『ひげのサムエルのおはなし』

ビアトリクス・ポター 作・絵/いしい ももこ 訳/福音館書店/本体価格700円(税別)

ピーターラビットのシリーズではおなじみ、ねこのタビタおくさんと3匹の子どもたち――モペット、ミトン、トム。今回は、とりわけトムにスポットが当てられています。とはいうものの、もし、これが演劇なら、主演男優賞は大ねずみの「ひげのサムエル」で決まりでしょう。泰然として傍若無人、とんでもない悪党なのに、つかみどころなく緩慢としたピカレスクです。そんな彼のそばで、何くれとなく世話を焼く女房ねずみのアナ・マライアも、その抜け目のなさにおいては夫のサムエルに負けてはいません。動くのも大儀なほど、でっぷり肥った夫と、痩せた体躯(たいく)ながら口から先に生まれたような妻。互いに小言を言いあいながら、その悪事をまっとうする目的においては、これ以上ないほどのチームワークを発揮する2匹なのです。

まずは、ねこのタビタおくさんサイドから語り始めた物語。さても冒頭から不穏な空気を醸し出します。ねこたち一家が暮らす大きな古い屋敷は、部屋もおしいれも、そして廊下もたくさんあるのですが、「かべのあつさが 1メートルもあるところがあって、そこからは、よく きみょうなおとが きこえてくる」というのです。まるで「かべのなかに ひみつのかいだんでもあるよう」なその屋敷のなかで、今、いたずら子ねこのトムが行方不明になっています。タビタおくさんのいとこリビーおばさんも加わって、必死にトムを探すのですが、「戸が ぱたん と しまり、だれか したへ かけおりていくおと」が聞こえたり、「やねうらべやの ゆかしたで、なにかを ぺたぺた ころがしているような きみょうなおと」がするばかりで、可愛いトムの姿はどこにも見えません。おまけに、モペットは「年とった おんなねずみ」がねり粉を盗んでいったと言い、ミトンは「大きな おとこねずみ」がバターと麺棒を盗って行ったと訴えます。こうした一連の見聞は、すべての伏線となっているのですが、物語の全体を見渡すには、トムの行動を一から遡ってみなければなりません。

さて、ねずみ夫婦と不運な出会いを果たした(?)トム。彼に降りかかる災難は、まさに怒濤(どとう)の勢い。ひもでぐるぐる巻きにされ、バターとねり粉で全身べたべたにされた挙げ句、麺棒でのされるのです。そのぶざまな格好といい、必至で逃れようとするトムの叫びや抵抗には一切頓着しない、ねずみ夫婦の仕事ぶりの良さといい、滑稽で思わず笑ってしまいますが、その一方で、善も悪も存在しない動物たちの厳しい世界を目の当たりにして、背筋がぞくりとします。

冒頭で“主演男優賞はサムエル氏”だと述べましたが、この物語を演劇に喩えたくなるのは、舞台を反転させたような視点の切り替えが見事に表現されているからです。何処から眺めても、何処をのぞいても破綻がない――まるで円形劇場の観客になったような心地さえします。ねずみ夫婦はもちろんのこと、タビタおくさんやリビーおばさん、黙々と任務をまっとうする職人気質の大工のジョンさん(ジョンさんはテリア犬です)、登場人物一人ひとりに誰かモデルがいたのではと想像してしまうほど、それぞれのパーソナリティーが際立っています。作家ポターの鋭い観察眼で捉えられた現実は、新たな命を吹き込まれ、物語のそこかしこに息づいているのです。サスペンスドラマの様相も呈する一冊ですから、その手練れた仕掛けまで一読したあと、再度読み直してみるのもお楽しみの一つでしょう。

プロフィール

吉田 真澄 (よしだ ますみ)

長年、東京の国語教室で講師として勤務。現在はフリー。読書指導を行いながら、読む本の質と国語力の関係を追究。児童書評を連載するなどの執筆活動に加え、子どもと本に関する講演会なども行う。著書に『子どもファンタジー作家になる! ファンタジーはこうつくる』(合同出版)など。

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