ブックトーク

『風にのってきたメアリー・ポピンズ』

世代を超えて読み継ぎたい、心に届く選りすぐりの子どもの本をご紹介いたします。

ミュージカルにもなった英国ファンタジー

P.L.トラヴァース 作/林 容吉 訳/岩波書店

子どもたちと一緒に本を読んでいて楽しいのは、彼らが現実とファンタジーの垣根を自在に飛び越え、同じ地平で生きる物語として読む行為を満喫するからです。彼らには、想像の世界まで見渡せる広い視野があり、一見すると隔たったものどうし――たとえば、魔法的な世界と合理的な知性、過去と現在、大人と子どもといった――が、見たまま感じたままに記憶されていきます。
しかし、成長するにつれ、スカッと爽快に見渡せた視野は徐々に狭まり、私たちは、経験や知恵でそれを補おうとするのでしょう。だから、ずっと私は思ってきたのです。より広い視野を持っているのは大人ではなく、幼い読者の彼らの方だと。

つややかな黒髪、痩せているのに手足が大きく、キラキラとした青い目のメアリー・ポピンズ。ジェインとマイケルの姉弟、双子の赤ちゃんたちのナース(保母)として桜町通りのバンクス家にやってきた彼女は、東風に吹きつけられ、空中に持ち上げられるようにして玄関に到着します。そして、階段の手すりを滑り上がり(滑り降りるのではなく、上るのです)、からっぽのバッグに手を入れて、次々と必要なものを取り出します。まっ白なエプロン、歯ブラシ、折りたたみ式の肘掛け椅子まで。ジェインとマイケルを最も喜ばせたのは、ひとさじごとに違う飲み物に変化する大きな瓶です。薬かと思えばストロベリーアイスに、そうかと思えばライムジュースに、双子たちを前にすればミルクに……といった具合です。
この本を初めて読んだ小学生のころ、それまで読んできたお話には決して登場しなかった不遜な態度の主人公に、まずは面食らいましたが、それでいて、彼女の持ち物、じゅうたんでできたバッグや、オウムの頭が柄になったこうもりがさにすっかり心を奪われたのでした。そして、メアリー・ポピンズという風変わりな人物が次に何をするのか、どうしても確かめないではいられなくなったのです。

笑うと体にガスが充満し地上に降りられなくなってしまうのに、どうしても笑うことを止められず空中でお茶を飲むお話(「笑いガス」)や、動物園の動物たちが自由に外を歩き回り、代わりに人間が檻に入るお話(「満月」)など、想像と魔法が溶け合った奇想天外なエピソードが次々に語られます。
胸が沸き立つのに、ほんの少しさびしさを感じるのは、メアリー・ポピンズが、何も恐れず、ひとりでそこに、ただ強烈に、居るからかもしれません。彼女は、自分が異端であることに屈託を抱えていないし、誰にも媚びず、誰とも群れず、自分がやりたいことを納得できるまでやっているだけです。唯一無二の自分を堂々と生きる彼女。自由は、ぽたりと絵の具が落ちたようなさびしさをはらんでいます。

『風にのってきたメアリー・ポピンズ』は、1934年に英国で出版されました。お話の中にだって、どうしても魔法を信じられない大人が登場します。ハプニングの渦中にあって尚、窮屈な視野をそのまま固定し、社会常識にしがみついている彼らを、しかし、今回再読した私は笑えませんでした。目前のできごとを理屈でとらえようと身構えて萎縮することは、ちっとも珍しくないからです。
冒頭にも書いたように、幼い読者たちが一つの体験として物語に向き合うのは、最も正統的な読書の楽しみ方なのでしょう。もちろん、羨ましくないはずがありませんが、一方で、読み継がれてきた古典のエネルギーを改めて感じられたのは、大人ならではの、収穫かもしれません。古いのに斬新で、シンプルなのに幾通りもの感慨を喚起する物語。縦横無尽に語られる逸話は、雨を含んだ緑のようにみずみずしいのです。

プロフィール

吉田 真澄 (よしだ ますみ)

長年、東京の国語教室で講師として勤務。現在はフリー。読書指導を行いながら、読む本の質と国語力の関係を追究。児童書評を連載するなどの執筆活動に加え、子どもと本に関する講演会なども行う。著書に『子どもファンタジー作家になる! ファンタジーはこうつくる』(合同出版)など。

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