●5年後に向けて
皆さんの将来の夢や目標は何ですか?
■大学生
5年後くらいであれば、まずは今、就職内定をいただいている会社で主軸となって動けるようになりたいです。それから、大学院へ進みたいという思いもありますので、社会で活躍しながら大学院で学ぶことも目標の1つになっています。
■卒業生
今は現場担当をしていますが、建築は学ぶことがすごくたくさんあります。設計もこれからどんどん勉強しなければいけなくて、すべてのことを一人で担当できるまでに、最低でも3年から5年かかると言われています。
私の目標としては、一級建築士の資格を取得して、自分の設計デザインのスタイルを確立させ、5年後には、自分一人ですべてのプロセスを担当できるようになることですね。
■先生
私の場合は、5年後も今と変わらないスタンスでしょうね。以前に比べれば環境はとても良くはなっていますが、障害などで社会に参加したくてもできないという方が多くいます。そういう人たちに扉を開く努力は続けていきます。
また、最近は国際協力機構(JICA)の関係で、途上国を訪問することも多くなっています。途上国ではまだユニバーサル・デザインの分野は進んでいません。フィリピンやルワンダ、これからヨルダンなどにも行きますが、そうした途上国での活動も今後は増えていくと思います。
思うように移動しにくい国に行かれるのは大変ですね。
■先生
だからこそ呼ばれているのでしょうね。車いすを使っている私が行けば、何が不便なのか、何が足りないのか、現地の人たちも理解しやすいわけです。そのように身をもって示すということが、私の活動の一環になっています。
先生がユニバーサル・デザインの普及・啓発活動をされた経緯を教えてください。
■先生
私は19歳の時に車いすを使うようになり、その後、一級建築士の資格を取得してから30代まではずっと自分の設計事務所を経営していました。そして、1989年から90年にかけて、私が36歳の時でしたが、いろいろな縁があって渡米する機会に恵まれました。その時に訪れたカリフォルニア州の街ですごく驚いたのは、車いすを使う私が、交通機関からレストランまで、とても自由に過ごせたことです。どうしてこんなにも日本と違うのかと調べてみると、カリフォルニア州の州法で定められていて、守らないと罰則があるということがわかりました。
当時の日本は、障害のある人を街が受け入れるのは優しい心でという、あくまでも個人レベルの善意であり、罰則まで定めた法律で規制するということではありませんでした。
この渡米体験で初めて、法律を含んだ社会制度への働きかけが、ユニバーサル・デザインやバリアフリーという概念を広めるには大事なのだということを知りました。
そして、帰国して40歳の時に東京に出まして、それ以降はずっとユニバーサル・デザインを広めるための言わば社会活動をしてきました。都市計画にしても建築にしても、日本でユニバーサル・デザインを広めるには、法律やガイドラインを決めて、それに対して設計者などに従ってもらうという方法が有効だと思うからです。
当時の日本では、この問題は高齢の人や障害のある人に関わることだから福祉であり、福祉関係というとモデルにするのは北欧でした。一方で米国には、この問題について福祉という考え方が基本的にはなく、障害のある人が建物に入れないとしたらそれは差別だ、と考えます。ですから罰則が付くわけです。ただ、私がそう言っても説得力がありませんので、米国から専門家を招聘して日本で講演をしてもらい、私自身も著書を執筆するという活動を数年続けました。そうするうちに、行政の委員会や学会などでも私の活動や発言が認められるようになりました。
思えば、40歳の頃の私は設計事務所をやめて東京に来ましたので、無職なんですね(笑)。そういう怪しい素性でしたが、ほかに建築や法律を障害者運動と合わせて語れるような人がいないので、私が行政などにも呼ばれるようになったわけです。
そうした活動過程の中で、東洋大学で建築を教えられていた高橋先生と知り合うことができました。高橋先生は現在、建築物のバリアフリー分野では日本のトップと言われているほどの先生です。またその当時、別の活動で知り合いになった国立大学の先生にお願いして、大学院に通い始めていました。博士号を取得した頃に、ちょうど高橋先生からライフデザイン学部創設の話がありまして、現在に至っているわけです。
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