特集

「学校」は何を学ぶところか(2)

教育を論じるときには「哲学」が欠かせない

――学校教育というのは影響範囲が大きいだけに意見の対立や論争もよく起こりますが、みなが納得するような形で変えていくにはどうしたらよいのでしょうか。

教育を受けた経験は誰もがもっていますから、その経験に基づいて主張や不満を言い出せば、意見が対立して収拾がつかなくなるのも当然です。たとえば「知識は大切だ」という人もいますし、「学校で覚えた知識なんて役に立たない」という人もいますが、どちらも、ある面では正しいと言えます。ただ、「知識なんて役に立たない」からといって全部の学校で知識を教えるのをやめてしまおう、というのはさすがに乱暴すぎますよね。

――誰もが納得できるような根拠が必要ですね。

学校教育に新たな手法を導入しようとするとき、それが「エビデンス(科学的根拠)」に基づくものかどうかというのは、一つ重要な観点です。近年、学力向上のために有効な教育方法を科学的に解明しようとする研究が増えてきました。たとえばICTの活用やアクティブ・ラーニングなどは、そうした研究の成果も一応は背景にあって広まってきたものです。

※アクティブ・ラーニング……受身的に知識を頭に入れるのではなく、自分で考え、他者に説明し、他者の意見を聞いて考えを発展させながら、答えを出していく学習の方法。

ただし、「科学的根拠だけでは全く不十分」というのがわたしの考えです。たとえば、ある学校で「強制的なドリルの反復」が短期的に学習効果が高いと実証されたとしても、長い目で見て、子どもたちの主体性を損ねたり、かえって勉強嫌いな子を増やす可能性があったら、それをすべての学校に適用することが本当に「よい教育」と言えるのかどうか、疑問ですよね。

教育を論じるうえでは、そもそも教育は何を目指すべきなのか、どういうものがよい教育といえるのかという「哲学」が欠かせないのです。

――哲学というと、なんだか日常からかけ離れたもののように感じてしまうのですが。

実生活には関係のない難しいことを延々と考えるというイメージがあるかもしれません。でも哲学とは、物事の「意味」や「価値」について、万人が納得のいくような、本質的な答えを洞察する学問なんですよ。

これからの学校教育で何を実現すべきなのか。こうした正解のない問いを考えていくには、まずはじめに「そもそも学校は何のためにあるのか」について誰もが深く納得できる答えを共有していなければ、足元がぐらつくばかりで、議論が進められませんよね。そこで、物事の本質を解明する「哲学」が重要なのです。

学校教育は何のためにある?

――では「学校は何のためにあるのか」という問いに対して、哲学はどのような答えを示せるのでしょうか。

学校教育の最も大事な本質は、すべての子どもたちに、〈自由〉に、つまり「生きたいように生きられる」力をはぐくむことにある、というのが答えです。

「自由に、自分の生きたいように生きること」は誰もがもっている願いです。しかし、それぞれがそれぞれの〈自由〉をストレートに主張し合っていたら、争いは避けられません。動物であれば一度勝敗が決まれば争いは終わりですが、人間は「自分の生きたいように生きたい」という欲望を本質的にもっているので、奪われたら奪い返そうとし、傷つけられたら憎しみを晴らそうとします。人類が1万年以上もの間、戦争をやめられずにきたのはこのためです。

では、どうすればこの争いを終わらせることができるか。ホッブ、ルソーといった多くの哲学者たちがこの問いについて考え続け、ついに二百数十年前、ヘーゲルというドイツの哲学者が次のような結論にたどり着いたのです。

自分の〈自由〉を一方的に主張したり、人に力ずくで認めさせたりするのではなく、まずはいったん、お互いがお互いに相手が〈自由〉な存在であることを認め合おう。そのうえで、誰もが自由に平和に暮らせるルールに基づいた社会を作り合おう――

これを〈自由の相互承認〉と言います。長い戦争の歴史を経て、ようやく見出された、現代の民主主義を支える知恵でもあるのです。スティーブン・ピンカーという学者が『暴力の人類史』という著書で論証しているのですが、実は、この2〜3世紀の間、戦争や暴力は激減しているんですよ。その最大の理由はこの哲学が共有されて民主主義社会が広がったことだと彼は述べているんですね。

聞き慣れない言葉かもしれませんが、実は、〈自由の相互承認〉のおかげで我々は今自由や平和を享受できているわけです。

――哲学者が〈自由の相互承認〉の考え方に到達していなければ、今の社会はなかったというわけですね。

そうです。ただ、この理想を現実のものとして誰もが共有するには、そのための仕組みが必要ですよね。その最たるものが「法」。一人ひとりが対等に自由な存在であることを理念として保障するものです。

そしてもう一つ、重要な役割を果たすのが公教育、つまり学校です。

わたしたちは今、曲がりなりにも「みな、対等な人間どうしである」という共通認識を身につけています。国や宗教や人種や価値観が違う人であっても、それによって自分や他者の〈自由〉を侵害するのでない限りは、否定したり攻撃したりせず、ひとまず承認する。そうした感性・感度を持てているのは、学校で学んだおかげなのです。

つまり学校とは、「自分が自由になるための力を獲得する場所」であると同時に、「お互いの自由を認め合う感度をはぐくむ」場所〈自由の相互承認〉に基づく社会を作るうえで、重要な使命を担っているわけです。

「自由の相互承認」の感度をはぐくむ空間の例

――なるほど。学校は〈自由の相互承認〉の感度をはぐくむ場所であるという共通認識をもったうえで、これからの公教育のあり方を考える必要があるのですね。その観点から今の学校を見直してみると、不足しているものは何でしょうか。

とにもかくにも、信頼と承認に満ちた空間であることがまず必要です。競争的で、空気を読み合うような環境の中にいると、その中でサバイバルするために他者に攻撃性が向いてしまうし、自分自身を認めることも難しくなってしまうんですね。ですから、「自分は自分でいていいんだ、自分は信頼され承認されている人間なんだ」と感じられる空間であることが肝心です。

授業も、一斉授業がほとんどだと、1日中、話す相手が限られてしまいがちです。もしかしたら、1年間同じ教室にいても、ひと言も言葉を交わさないままのクラスメイトもいるかもしれません。相互承認の関係が育っていかないので、クラス内にいても安心感がもてず、空気の読み合いとか、相互の牽制が生まれてしまうわけです。

――人間関係が固定的になりやすいのですね。それを打開するためにどんな方法が考えられるでしょうか。

私は「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」という理論を長らく提唱していますが、その1つの実践として、オランダの「イエナプラン教育」をご紹介しましょう。これは、異年齢学級の中で異学年の子どもたちが学びあうことを1つの特徴とした教育です。教師は、何かを「教える」必要があるときは同じ年齢の子を集めて説明するのですが、あとは基本的に個別学習・協同学習。先生の支えの中、子どもたちどうしが教え合い、学び合いながら学習が進んでいきます。

画一的な教育システムだと、それに合わない子、いわゆる「落ちこぼれ」を自動的に生んでしまうという反省から、オランダでは1960年代からこの教育プランが急速に普及しました。

イエナプランでは、異年齢のグループで行う探究学習のプロジェクトも活発です。自分たちの興味に基づいてテーマを決め、調べたことを報告するという取り組みで、ほとんどの学校で、1年で8つのテーマに取り組みます。

このような「個別化・協同化・プロジェクト化の融合」を行えば、そのときそのときで人の力を借りることが必要になるので、人間関係の濃い薄いを超えた学び合いが起こります。互いの良いところに気づくことができて、信頼関係が生まれる。お兄さんお姉さんと話す機会がもてるので、自然と、数年後の自分を思い描くようにもなるでしょう。

⇒次ページに続く 探究心を育てる学習を学びの中心に

プロフィール

苫野一徳(とまの・いっとく)

熊本大学教育学部准教授。博士(教育学)。専攻は哲学・教育学。多様で異質な人たちがどうすれば互いに了解し承認しあうことができるか、探究している。『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)ほか著書多数。NHKスペシャル「シリーズ 子どもの“声なき声” “不登校”44万人の衝撃」、ウワサの保護者会(NHK Eテレ)「学校へ行かない!」などの出演も。
ブログ:https://ittokutomano.blogspot.com/

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