「学校」は何を学ぶところか

新学期を前に、お子さまが学校や新しいクラスになじめるか、気にかけている保護者の方は多いことでしょう。子どもたちには、学校で生き生きと過ごし、心豊かな経験を積んでいってほしいもの。しかしながら、その学校が時に子どもを悩ませ、苦しめる原因になってしまうことも。今月は、今の時代における「学校」のあり方について、哲学者・教育学者であり、小学生の父親でもある苫野一徳先生とともに考えます。

※本記事は、2020年3月26日に「Z-SQUARE」上で掲載した記事を一部修正の上、再掲しています。

 

「みんな同じ」が息苦しさを生んでしまう、今の学校

――昨今の学校をめぐる状況を見ていると、誰もが安心してわが子を学校に送り出せる状況ではないように感じます。

そうですね。全国で、不登校あるいは不登校傾向にある中学生は推計44〜85万人というデータもありますし、いじめや、人権的に問題のある校則など理不尽な指導の例も相変わらず見聞きします。
個々のケースを見ていけば、特定の人が責められるべき場合もあるでしょう。しかしわたしが問題の根本にあると考えているのは、「学校という制度の限界」。実は日本の学校は、明治5年に学制が発布されてから150年もの間、システムがほとんど変わっていないのです。

――同じ年齢の子どもで学級をつくり、先生がまとめて教えるというやり方のことでしょうか。

そうです。しかも、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」勉強するというシステムです。
学校のような、きわめて同質性の高い集団では、同じであることを良しとする雰囲気、すなわち同調圧力が強くなり、集団の規律に従わない子やクラス内の雰囲気になじめない子が、排除の対象になりやすいんですね。

そうならないために、「空気を読み」「キャラを演じ」ながら学校生活を送っている子は少なくありません。一見、学校に適応しているように見える子でも、自分が標的にならないように気をつかっている場合も多いです。

 

新1年生の子どもが入学後に出合うギャップ

 ――入学したばかりのお子さんが、入学前の環境とのギャップにストレスを感じる場合もありそうです。

幼稚園や保育園では、子どもの主体性を大切にした活動が多く行われています。遊びに熱中するなかで試行錯誤したり、仲間と協力したり折り合いをつけたりすることが将来の学びの土台になるというのが、幼児教育の基本中の基本となる考え方だからです。

小学校でも、こうした幼児教育の知見や文化を取り入れたらよいのではと思うのですが、実際は逆の場合が少なくありません。園では頼もしいお兄さんお姉さんとして尊重されていたのに、小学校に入学した途端、無力な存在として、「先生の言うとおりに」させる指導になりがちです。机の上の筆記具の置き方から発言の仕方まで、細かなルールを設けている小学校も多くあります。

――なぜそうなってしまうのでしょうか。

「同じことを、同じペースで、同じやり方で」が、学校の基本システムになっているために、本当は子ども一人ひとりを尊重したいと考えている先生も、不本意ではあったとしても、「統率する」ことを意識せざるを得ない面があるのでしょう。

しかし、変化に柔軟に対応する力が求められる今の時代には、指示どおりにこなす従順さよりも、主体性や積極性、自ら学び続ける力をはぐくむことのほうが、より重要であることは言うまでもありません。
ただ、先生も、本当は規則や権力でおさえつけるような教育などしたくないと思っていたとしても、基本システムがそもそも画一的であるために、現場では管理や効率性を重視する力が勝ってしまうんですね。
だからこそ、先生を責めるより、学校というシステムのほうを見直すべきだとわたしは思います。

――システムを見直すとなると、とても時間がかかりそうですが。

いまお子さんが不登校などで苦しい思いをしているという方はとくに、そんな悠長なことは言っていられないとお感じになるかもしれませんね。

ただ、根本的な解決をはかるためには、いじめの問題だとか、学級崩壊だとか、落ちこぼれだとか、そういう個々の問題だけを対症療法で考えていても事態は変わらないと思うのです。

問題の本質は学校というシステム、つまり、今の公教育の形にあることは明らか。世の中の急速な変化を考えれば、少なくともあと15〜20年の間には学校のあり方を根本的に変えていくべきです。

 

教育を論じるときには「哲学」が欠かせない

――学校教育というのは影響範囲が大きいだけに意見の対立や論争もよく起こりますが、みなが納得するような形で変えていくにはどうしたらよいのでしょうか。

教育を受けた経験は誰もがもっていますから、その経験に基づいて主張や不満を言い出せば、意見が対立して収拾がつかなくなるのも当然です。たとえば「知識は大切だ」という人もいますし、「学校で覚えた知識なんて役に立たない」という人もいますが、どちらも、ある面では正しいと言えます。ただ、「知識なんて役に立たない」からといって全部の学校で知識を教えるのをやめてしまおう、というのはさすがに乱暴すぎますよね。

――誰もが納得できるような根拠が必要ですね。

学校教育に新たな手法を導入しようとするとき、それが「エビデンス(科学的根拠)」に基づくものかどうかというのは、一つ重要な観点です。近年、学力向上のために有効な教育方法を科学的に解明しようとする研究が増えてきました。たとえばICTの活用やアクティブ・ラーニングなどは、そうした研究の成果も一応は背景にあって広まってきたものです。

※アクティブ・ラーニング……受身的に知識を頭に入れるのではなく、自分で考え、他者に説明し、他者の意見を聞いて考えを発展させながら、答えを出していく学習の方法。

ただし、「科学的根拠だけでは全く不十分」というのがわたしの考えです。たとえば、ある学校で「強制的なドリルの反復」が短期的に学習効果が高いと実証されたとしても、長い目で見て、子どもたちの主体性を損ねたり、かえって勉強嫌いな子を増やす可能性があったら、それをすべての学校に適用することが本当に「よい教育」と言えるのかどうか、疑問ですよね。

教育を論じるうえでは、そもそも教育は何を目指すべきなのか、どういうものがよい教育といえるのかという「哲学」が欠かせないのです。

――哲学というと、なんだか日常からかけ離れたもののように感じてしまうのですが。

実生活には関係のない難しいことを延々と考えるというイメージがあるかもしれません。でも哲学とは、物事の「意味」や「価値」について、万人が納得のいくような、本質的な答えを洞察する学問なんですよ。

これからの学校教育で何を実現すべきなのか。こうした正解のない問いを考えていくには、まずはじめに「そもそも学校は何のためにあるのか」について誰もが深く納得できる答えを共有していなければ、足元がぐらつくばかりで、議論が進められませんよね。そこで、物事の本質を解明する「哲学」が重要なのです。

 

学校教育は何のためにある?

――では「学校は何のためにあるのか」という問いに対して、哲学はどのような答えを示せるのでしょうか。

学校教育の最も大事な本質は、すべての子どもたちに、〈自由〉に、つまり「生きたいように生きられる」力をはぐくむことにある、というのが答えです。

「自由に、自分の生きたいように生きること」は誰もがもっている願いです。しかし、それぞれがそれぞれの〈自由〉をストレートに主張し合っていたら、争いは避けられません。動物であれば一度勝敗が決まれば争いは終わりですが、人間は「自分の生きたいように生きたい」という欲望を本質的にもっているので、奪われたら奪い返そうとし、傷つけられたら憎しみを晴らそうとします。人類が1万年以上もの間、戦争をやめられずにきたのはこのためです。

では、どうすればこの争いを終わらせることができるか。ホッブズ、ルソーといった多くの哲学者たちがこの問いについて考え続け、ついに二百数十年前、ヘーゲルというドイツの哲学者が次のような結論にたどり着いたのです。

自分の〈自由〉を一方的に主張したり、人に力ずくで認めさせたりするのではなく、まずはいったん、お互いがお互いに相手が〈自由〉な存在であることを認め合おう。そのうえで、誰もが自由に平和に暮らせるルールに基づいた社会を作り合おう――

これを〈自由の相互承認〉と言います。長い戦争の歴史を経て、ようやく見出された、現代の民主主義を支える知恵でもあるのです。スティーブン・ピンカーという学者が『暴力の人類史』という著書で論証しているのですが、実は、この2〜3世紀の間、戦争や暴力は激減しているんですよ。その最大の理由はこの哲学が共有されて民主主義社会が広がったことだと彼は述べているんですね。

聞き慣れない言葉かもしれませんが、実は、〈自由の相互承認〉のおかげで我々は今自由や平和を享受できているわけです。

――哲学者が〈自由の相互承認〉の考え方に到達していなければ、今の社会はなかったというわけですね。

そうです。ただ、この理想を現実のものとして誰もが共有するには、そのための仕組みが必要ですよね。その最たるものが「法」。一人ひとりが対等に自由な存在であることを理念として保障するものです。

そしてもう一つ、重要な役割を果たすのが公教育、つまり学校です。

わたしたちは今、曲がりなりにも「みな、対等な人間どうしである」という共通認識を身につけています。国や宗教や人種や価値観が違う人であっても、それによって自分や他者の〈自由〉を侵害するのでない限りは、否定したり攻撃したりせず、ひとまず承認する。そうした感性・感度を持てているのは、学校で学んだおかげなのです。

つまり学校とは、「自分が自由になるための力を獲得する場所」であると同時に、「お互いの自由を認め合う感度をはぐくむ」場所。〈自由の相互承認〉に基づく社会を作るうえで、重要な使命を担っているわけです。

 

「自由の相互承認」の感度をはぐくむ空間の例

――なるほど。学校は〈自由の相互承認〉の感度をはぐくむ場所であるという共通認識をもったうえで、これからの公教育のあり方を考える必要があるのですね。その観点から今の学校を見直してみると、不足しているものは何でしょうか。

とにもかくにも、信頼と承認に満ちた空間であることがまず必要です。競争的で、空気を読み合うような環境の中にいると、その中でサバイバルするために他者に攻撃性が向いてしまうし、自分自身を認めることも難しくなってしまうんですね。ですから、「自分は自分でいていいんだ、自分は信頼され承認されている人間なんだ」と感じられる空間であることが肝心です。

授業も、一斉授業がほとんどだと、1日中、話す相手が限られてしまいがちです。もしかしたら、1年間同じ教室にいても、ひと言も言葉を交わさないままのクラスメイトもいるかもしれません。相互承認の関係が育っていかないので、クラス内にいても安心感がもてず、空気の読み合いとか、相互の牽制が生まれてしまうわけです。

――人間関係が固定的になりやすいのですね。それを打開するためにどんな方法が考えられるでしょうか。

私は「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」という理論を長らく提唱していますが、その1つの実践として、オランダの「イエナプラン教育」をご紹介しましょう。これは、異年齢学級の中で異学年の子どもたちが学びあうことを1つの特徴とした教育です。教師は、何かを「教える」必要があるときは同じ年齢の子を集めて説明するのですが、あとは基本的に個別学習・協同学習。先生の支えの中、子どもたちどうしが教え合い、学び合いながら学習が進んでいきます。

画一的な教育システムだと、それに合わない子、いわゆる「落ちこぼれ」を自動的に生んでしまうという反省から、オランダでは1960年代からこの教育プランが急速に普及しました。

 

イエナプランでは、異年齢のグループで行う探究学習のプロジェクトも活発です。自分たちの興味に基づいてテーマを決め、調べたことを報告するという取り組みで、ほとんどの学校で、1年で8つのテーマに取り組みます。

このような「個別化・協同化・プロジェクト化の融合」を行えば、そのときそのときで人の力を借りることが必要になるので、人間関係の濃い薄いを超えた学び合いが起こります。互いの良いところに気づくことができて、信頼関係が生まれる。お兄さんお姉さんと話す機会がもてるので、自然と、数年後の自分を思い描くようにもなるでしょう。

 

探究心を育てる学習を学びの中心に

――そうした学びは、今の日本では極端に少ないですね。ですが、イエナプランのように「探究」に重きをおいた学びの機会を増やしていくと、いわゆる教科知識の力が低下したりしないでしょうか。

いえ、むしろ学ぶ意欲を高める原動力になります。学びのおもしろさを感じられる瞬間の一つは「わかる」「できる」を感じることですよね。そして自分の成長が実感できること。協同学習や探究学習の経験は、自分の成長を実感する大きな機会になるはずです。

もちろん、ドリルを使った学習でも、すべての子どもが、「わかる・できる」ことのおもしろさを発見できるのなら問題はないんです。ですが、一斉授業だとどうしても、ついていけない子や逆につまらないと感じる子が出てきてしまう。

それに、もう答えがわかっていることを知るのが勉強なんだと、それだけになってしまうのは少し寂しいですよね。「今学んでいることの先には、こんな未知の世界があるんだ」と、その先の世界を大人が見せることも大事だと思うのですが、それが日本の学校にはあまりない。カリキュラムの自由度が低いので、自分をわくわくさせる探究心が育ちにくいんですね。

時代が変わっても学校で身につけるべき学びの本質は「自由に生きるための力」だという点に、つねに立ち返って考えなくてはいけない。そして、現代において自由に生きるための力は何かと言えば、それは「探究する力」だと思うのです。

自分で問いを立てて、自分たちなりのやり方で、自分たちなりの答えを導き出す力。この力の獲得をカリキュラムの中心におくと、必然的に、探究するには知識もやはり必要だということが実感できるはず。そうなれば、同じ勉強をするにしても、やらされ感がずいぶんなくなるのではないかと思います。

 

〈自由〉を守るために、してはいけない「我慢」

――学校が、「自由の相互承認」を学ぶという大切な使命を持っているのだとすると、もしわが子が「学校に行きたくない」と訴えてきたら、どう対処すればよいのでしょうか。

もし学校が原因でお子さんの自由が脅かされているのであれば、行く必要はありません。心がズタボロになるのを我慢してまで行く必要はない。むしろ行くべきではないということは、ぜひ広く理解されてほしいです。

とはいえ、不登校のご家庭の葛藤も、とてもよくわかります。実はわたしの子どもも、おととし、半年ほど学校へ行けなくなった時期があり、そのことを心底痛感しました。

苦しさの原因の一つは、周囲の目。学校に行かないイコール「怠け」である、引きずってでも学校に行かせるべきだ、という価値観は根強いんですよね。

もう一つは、不登校の子どもに学校以外の教育機会を用意できるか。両親ともに仕事で帰りが遅いとなると、その間はゲーム三昧ということにもなりやすい。不登校を受け入れ、家庭で子どもの学習に付き添うなど別の選択肢を用意できるかどうかは、そのご家庭の経済状態などにもよるので、本当に難しい問題です。

――不登校を受け入れる選択を誰もができるわけではない。だとしても、我慢を子どもに強要すべきではないのですね。

そうです。時折「学校は我慢を学ぶところだ」などと主張する人もいますが、こうした認識には大きな問題があるんですよ。

わたしは、我慢にも「受動的忍耐」と「能動的忍耐」の二種類あると思っています。いじめられて苦しんでいる子に「学校に行け」というのは、要するに「ただひたすら耐えろ」と言っているのと同じ。それは「受動的忍耐」なんです。自分にはどうすることもできないなか、ただただ身を縮めてやり過ごすことを覚えさせる。そうした我慢は、子どもの力を奪うだけ。弊害のほうが大きいのです。

これまでの人生で「受動的忍耐」をしてきた大人は、それによって今の自分が形づくられているわけですから、「受動的忍耐」を必要以上に正当化してしまったり、同じように我慢することを子どもに求めたりしてしまう可能性がある。このことを自覚する必要があります。

それに対し、経験する価値があるのは「能動的忍耐」。本当に探究したいこと、やりたいことがある子は、たとえさまざまな障壁があったとしても、人と協同しながら、あるいは創意工夫によって、何とか乗り越えていこうとします。そういう忍耐こそ、大いに経験すべきです。

 

時代に合った、よりよい市民社会をつくるための学校の役割

――わが子にはつい多くを求めてしまいがちですが、学校で学ぶ究極の目的は、子どもが自由に生きられる力をつけること。そのことを心に留めておく必要がありますね。

自分が自由に生きるのはもちろん、みんなが自由に、幸せに生きられる社会をつくるにはどうしたらいいか。学校とは、それを考える練習の場でもあります。

いま大学生を見ていると、ルールというのは一方的に与えられるもの、我慢して従うものだと思い込んでいる若者が多いように見えます。それは、小中高と学ぶ過程で、校則などルールが一方的に与えられるばかりで、自分たちでルールを見直す機会が保障されていなかったことにも原因があるのではないでしょうか。

若者が政治や社会に関心がないと嘆く声もありますが、学校を自分たちの手で作るという経験がなければ、よりよい社会を作るのは自分たちだという自覚は持てないでしょう。

ルールとは本来、みなが自由でいられるためにみなで作り合うもの。子どもたちにその経験を保障することは民主主義の土台を築くことであり、学校教育の本質なのです。

――学校を自分たちの手で作るというのは、小学生にもできることでしょうか。

できますよ。たとえば、「教室リフォームプロジェクト」という活動を実践している先生がいます。学びの主役は子どもたちですから、子どもたちみんなで意見を出し合い、折り合いをつけながら、教室をリフォームするアイデアを出していくんですね。たとえば教室の真ん中には畳を置こう、その周りをベンチで囲もうとか、読書スペースを作りたいとか、いろんなアイデアが出てきます。これも自分たちでよりよい学校を作る探究的な活動の一つですし、「協同型」「プロジェクト型」の学びにもなります。

――なるほど。先ほどの「イエナプラン」も驚きでしたが、保護者世代は、自分の受けてきた教育にとらわれずに、新しい発想で学びのあり方を考える必要がありますね。

学校を変えるために、保護者のみなさんにも、「もっと違う学校のあり方があるんじゃないか」と考えていただけると嬉しく思います。そのためにはまず「知ること」。今の教育システム以外の方法をぜひ知ってほしいですね。

みな、自分の受けてきた教育しか知らないので、これが当たり前だと思い込んでしまいがちです。みんなが同じことを同じペースで学習するのが当たり前、理不尽な校則があるのも、頭髪指導があるのも当たり前、そういうものだと思い込んでいる。でも、今の日本の教育は、歴史的に見ても、海外と比べても、超ローカルなものなんですよ。世界にも、実は日本にも、画一的でない教育システムの例は多数あります。今はまだ、別の教育システムがあるんだということを多くの人が知っていくフェーズ。このフェーズを越えれば、日本の教育は、音を立てて変わっていくのではないかと思います。

わが子の受ける教育がすぐに変わるということはないかもしれないけれど、だからといって遠い話だと思わないでほしいのです。学校教育は市民社会の基盤をつくる仕組み。将来、わが子を含めた市民一人ひとりがより自由で幸せな社会になるように、学校のあり方に関心をもってくださる方が増えてくれればと願っています。

――本当にそうですね。ありがとうございました。

 

苫野一徳(とまの・いっとく)


熊本大学教育学部准教授。博士(教育学)。専攻は哲学・教育学。多様で異質な人たちがどうすれば互いに了解し承認しあうことができるか、探究している。『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)ほか著書多数。NHKスペシャル「シリーズ 子どもの“声なき声” “不登校”44万人の衝撃」、ウワサの保護者会(NHK Eテレ)「学校へ行かない!」などの出演も。
ブログ:https://ittokutomano.blogspot.com/

 

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