石原千秋『百年前の私たち 雑書から見る男と女』(講談社現代新書)を読む。
結論から言うと、私たちの大部分は100年前から変わっていない。少なくとも、意識レベルにおいては。
だとすると、「自由と民主主義」は、日本人には向いていなかったのかもしれない。
だからといって、前近代に戻れというのではない。
「自由と民主主義」とは異なるけれど、より以上に我々が幸せになれるシステムはないのだろうか、ということである。
いくつか引用。
《百年前の雑書の言説とは、二流の知識人と二流の読者によって成り立つ世界である。まさに「大衆」の世界だと言っていい。そして、それは数十万部から百万部以上売れてしまうような現代の二流の書き手とその読者との関係そのものなのだ。僕自身はこれらベストセラー本を現代の「雑書」として買い、読んでいる。そこに小市民としての僕自身の〈顔〉が映し出されているからだ。》(p16~17)
ここ、「ベストセラーだから書き手は二流」あるいは「ベストセラーになるような本の書き手は二流」ということを言っているのではありません(多分)。
おそらく「二流の書き手が書いた雑書にもかかわらずベストセラーになる」ということでしょう(多分)。
そして、著者が念頭に置いているのは「ナントカの壁」とか「ナントカの品格」とか「ナントカは見た目が9割」といった本のことでしょう(多分)。
《現代でも、少し前から私鉄では通勤時間に「女性専用車」が導入されたが、学習院院長の乃木希典があまりの痴漢の多さに、通学時間に「女子専用列車」を走らせてほしいと要望したのもこの頃である。》(p172)
「この頃」=明治40年ごろ。
へぇー、その頃から女性専用車両が求められていたとは。
明治人のイメージ、ちょっと崩れましたか?
明治人のイメージなんて、そもそも大半の人が持ってないとは思いますが。
《人物の評価項目の中で「協調性」が重視されている限り、日本人は変わらない。ごく一部のエリート社員を除いて、企業は一般の社員に創意工夫ぐらいは求めていても、「自分の頭で考える人間」など求めていないことは、誰でも知っている。僕も大学院受験推薦書にある人物評価にまで「協調性」の項目があるのを見たときには、さすがに呆れてしまった。僕には「協調性」のある研究者というものが想像できない。「はい、私も教授のお説に賛成です」、こういう人間を養成するのが大学院の仕事なのだろうか。逆だろう。「いいえ、私は教授のお説に反対です」、こういう人間を育てるのが大学院の仕事ではないのか。》(p248)
「創意工夫ぐらいはいいが、それ以上のことは自分の頭で考えるな、上で決まったことに唯々諾々と従え、これもまた協調性」ということになるのだろう。100年間変わっていない考え方がこれから変わっていくかどうか、見守っていきたい。